稲刈り日和

 今日は父の命日、甲仲原のお寺へ。途中稲刈りがあってました。たわわに実った稲。粕屋町は炭鉱で栄えた時もありますが、どちらかと言えば田んぼばっかしの、かすやの里という名称がぴったりの平凡な田舎の村でした。

 

 実家にも4反半の田んぼがありました。兼業農家で父は単身赴任、母が一人でやっていた農作業を小学生の頃はよく手伝わされました。遠い昔の思い出です。

 

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コメント: 2
  • #1

    ゆうじ (土曜日, 30 9月 2017 21:44)

    今、私の頭の上に・・・ヒューヒューと音を立てて沸騰するものが乗っかってしまいました。
    今回の件、本日は実名入りで対処する覚悟です!

    議論を尽くした結果、民営化で建て替えするのであれば異論は私もありません。

    広報かすや10、27ページを3回読んで「極めて悲しく情けない文章としか受け止められませんでした。」

    現在、執筆活動・準備中の中から粕屋町の歴史を1つ暴露します! 私の立場が悪くなろうとも、この件は許しがたき事象により覚悟を決めて臨みます!!! 私は絶対に負けません! 上級官僚の上層部の方、私のところへ是非お見えください。 一網打尽になるかも知れません。 2桁以上の暴露準備がありますから・・・。

    そして、それに怯え私の家族を脅かそうものなら・・・、喜んで戦いに馳せ参じましょう。

    それでは・・・、皆様にとっては小さな出来事かも知れませんが、20代から30代の方々はご存じないので”軽めの暴露”第1弾! 下記は、将来に出版予定の一部です。
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     そして、ついに情熱を注ぎ集中して調査を開始することになったのが、2017(平成29)年の春から次々と出会う尊敬の人々との出会いと8月15日に放映されたNHK特集「戦慄の記録インパール」を視たことでした。

     生涯にかけて最も戦争の愚かさを語り、看取りの最後まで私に語り続け多大な影響を与えた亡き父の小川豊について1つのエピソードを紹介してから本題に移りたいと思います。 私が粕屋中学校の1年生の終わりごろ・・・、突然に「次年度から男子は全員ボウズ頭にする」という校則へ変更の通知が届きました。 学校行事など1度も現れたことなく母に任せきりの博多人形師の父が突然に立ち上がり、仕事を打ち切り粕屋中学校へ向かって行ったそうです。
     校長先生か教頭先生かと数名の教師と静かに話し合ううちに、とうとう完全に頭が沸騰してしまった父は次の言葉で止めを刺して、私の学年までは無事に長髪が認められました。「お前たち教師は軍人かぁっー! この学校は軍隊かぁっー!」学校中に聞こえるくらいの大声で怒鳴りつけ帰りました。
     可哀そうなことに、なぜか入学してきた1つ下の学年から以降は、しばらく坊主頭が続いたようです。 父は、私が長髪のまま過ごしているのを見て安心して仕事に打ち込んでいたようです。 この男が、その後に粕屋中学校へ行く用事があれば状況は変わっていたはずでしょう・・・。 
    小川 豊 2013(平成25年)1月24日 永眠  
     難局の時は常に「兵隊さんの苦労に比べれば、どーもなか!」と言い続け、闘病中も痛かったろうに苦しかったろうに・・・、この言葉を死の間際まで言い続けての79年と10か月の生涯でした。

    ですので、父以上に理不尽な出来事に尽きましては私が徹底して対処して参ります覚悟です。 
    最後に、27ページのQ&Aの中で形容詞しか用いられていないことが軍閥政治の時代そっくりなことに感嘆の念、悲しい限りです。 現代を生きる私たちは無能無知ではありません。 私達を騙すには彼らの度量が小さすぎます。 失礼します。

    2017年9月30日(土)
    NPO笑和 命と人の尊厳を守る会
    小川 勇二





  • #2

    ゆうじ (土曜日, 30 9月 2017 21:53)

    誤解があっては困りますので1行。 このコメントは利益目的ではありません。 赤字覚悟のファミリーヒストリーの本を数年先に出版して、私にとって1冊限りの小川家のための出版の計画です。 菩提寺の浄念寺さまと博多港引き揚げに関する小さな工房が出版の絆の取り組みです。